@AZUSACHKA 's note

わたしの感想をわたしが読みたい。

【日記】『歴史を射つ』より長野壮一「現代歴史学の出発点――社会運動史における『主体性』と『全体性』」を読んでの感想

 

歴史を射つ: 言語論的転回・文化史・パブリックヒストリー・ナショナルヒストリー

歴史を射つ: 言語論的転回・文化史・パブリックヒストリー・ナショナルヒストリー

 

はじめに、自分のブログですが自己紹介から始めます。現在わたしは研究者でも院生でも何でもない普通のOLをやっているのですが、元々は去年まで大学院に通っていて、上原專祿について修士論文を書いた人間です。上原專祿というのは戦前~戦後にかけて活躍した戦後歴史学の歴史家のひとりで、『日本国民の世界史』という世界史教科書の編者として歴史学界隈では知られています。そういう興味・関心を持っていたので、この論文の著者の彼とは(研究のレベルには雲泥の差があるのですが)親しくさせて頂いたり自分の修論の相談に乗って頂いたりしていたことがあって、今回ご高著を賜りました。ありがたや。というわけで感想を書くことにしました。(頂いたのは11月のことなのに、こんなに遅くなってごめんなさい…)

 

レビューと名づけるほどの文章はわたしには書けないので、この文章を読んで今現在のわたしが感じたことを日記にしてみます。そんな文章に需要はあるのかしらと思わなくもないのですが、でも何かしらの形で感想めいたものがオンライン上に存在していれば、いつかどこかで誰かの役に立つかもしれない…と思い、新年にかこつけて日記を書くことにした次第です。

 

この論文で論じられていることの一つは、1970年に発足した「社会運動史研究会」の発足の背景(戦後歴史学への違和感)です。戦後歴史学は「模範的な変革主体」たる「近代的人間類型」の創出を目指すもので、それに対して違和感を覚えたのが喜安朗などの歴史家(社会運動史世代)です。例えば――最もわたしが印象に残ったものですが――論文中で引用されていた、1964年のとある東大の学部生の手記は象徴的です。この学部生は戦後歴史学(の定向進化論)に魅了されるも、結局は「歴史はいわゆる健全な人たちによって書かれたもの」と感じてしまい、「ヴァイタリティに乏しくグータラで、僅かに興味を持つのは女だけ」という現実の自分と戦後歴史学の目指す「強い主体」との間に葛藤を味わってしまったそうです(381頁)。社会運動史とは、このような「戦後歴史学への違和感」から出発して「弱い主体がありのままで自発性を発露できる方法を模索した(382頁)」ものであり、その結果「いかにして普通の人びとが現代社会の中で主体的に生きることができるのか、という実存的なテーマを探究した学問(392頁)」となったのでした。

 

(本当はこの社会運動史研究会の研究内容についてもっともっと詳しく書いてあるのですが、正直わたしにとってはちょっと難しかったので要約しにくかったことと、上でも書いたようにわたしの関心が上原專祿にあることも手伝って戦後歴史学に直接かかわる部分に言及したいと思ったので、このへんで要約を終わりにします。)

 

修士論文で上原專祿について書いていてすごく感じたのは、彼の掲げてる理想はすばらしいし、理想だけでなく彼本人も一年間に何十回も講演会をしたり文章を書いたりしてて本当に精力的に活躍してて、すごく格好いいのですが、すごすぎて「遠い」んですよね。言ってること正論だけど難しいよね、ていう感じ。(いや、大学教授なんてしてるような人たちの中で私なんかが「近い」と思えるような人なんて皆無なんですけど、それを抜きにしても…)。例えば、著作集の編者あとがきの中で彼の娘が書いてたんですけど、上原專祿は「自分に弟子などいない」と言ってたらしいんです。どういうことかというと、自分の思想には世界史(像の形成)と日蓮思想の両方が関係していて、そのどちらかが欠けていてもダメだから、ということらしい。言ってることは分かるし正論なんですけど、すごく厳しいなとわたしは感じたんです。世界史だけでも大変なのに日蓮て、的な。上原專祿を師と仰ぐ人はたくさんいるというのに…(まあ本人ではなく娘さんの言なんですけど。)
わたし自身このように感じていたので――社会運動史世代の「違和感」とは違いますが、なんとなく「ふむふむなるほど」と拝むだけではいられない、というのはなんとなく肌で理解できるように感じました。

でも、「違和感」で話を終えず、それを踏まえてちゃんと別の研究にできたあたり、私からすると「社会運動史世代のみんなは十分強いよ…『弱い主体』なんかじゃないよ…『普通の人びと』なんかじゃないよ…」なんて思ってしまいます。いや、単にポジションの違い(わたしみたいなのから見たら研究者はみんなすごい)からそう見えるっていうだけで、社会運動史世代の研究者たちは戦後歴史学世代と比べて「普通の人びと/弱い主体」だと自認していたのであり、実際に「僕は弱い人間だ…」なんて中学生みたいなことを考えていたわけではないんだそういう研究をしたっていう話なんだ、という論文の主旨は理解してるんですけどね。それを踏まえた上でね。だって、先に書いた、学部生は歴史学の道に進むのをやめちゃってるから。

 

この論文は内容が難しめなので、ある程度は社会運動史や戦後歴史学などの史学史を学んでいないと理解できないと思うんですが(実際わたしには後半部分が難しかった)、こういう「この歴史家はこういう体験やこういう違和感をきっかけとして○○を研究した」という内容の文章(=要するに史学史)には、もっと自分が若かった頃(学部入りたての頃)に出会いたかったなぁと思いました。喜安朗の、(当時の左派の活動で)ビラ配りを半強制的にさせられることへの違和感を口にして、それに対して上層部の活動家が言った「工場で働く労働者のことを思え」という言葉が「前線の兵隊さんのことを思え」に重なって聞こえた、という部分(378頁)なんて大変興味深かった。「この人は現在の社会への疑問から出発して歴史を勉強したんだなあ…」というのを具体的に知ることができますよね。論文の「はじめに」ではなく、本文として。こういうの、もっと若い頃に出会いたかった。
わたしにとって歴史を勉強することは「現在との対話」であると同時に「現在の自分との対話」なんです。歴史の勉強に限らず、勉強そのもの。勉強を通じてそれまでとはちょっと違う自分になったり、逆に、自分自身について新しい発見をしたりする。だから、歴史家の研究そのものではなく人生そのものについても知りたいなあと思ったのです。その意味で私は例えば藤野裕子先生の「私と歴史学の不確かな関係」*1が大好きなんです。

 

この論文の感想文は以上で終わり。下は、これを読んで感じたことをまとめた、自分の日記(と近況)です。

 

この論文、実をいうと一昨年の秋ごろに一度読ませて頂いていて、その時の自分のメモを読むと、「つくる会」の歴史教科書は戦争の描写を「名もなき兵士がいかに英雄的に戦ったのか」という立ち位置で「偉人ではなく普通の人間を英雄として扱う」ものだが、彼らなりに主体性を志向した結果だったのではないか、そういう風に見ると、問題意識の持ち方としては共通する部分があるのでは…みたいなことを書いているのですが(修士論文で、自由主義史観と戦後歴史学への共通性を指摘する論文*2をわたしは題材?の一つにしたのです)、今になって読むと、むしろ上述の「とある学部生の手記」なんかはすごく自分の身につまされるなあと感じました。

 

以下近況。わたしは学校の先生になりたいなと思っていて、そのために勉強して学校で非常勤講師もしていたのですが、修士を終えるときに、やめました。何をどう説明しても言い訳にしか聞こえないだろうと思ったから、そう思った過程は今まで誰にも言いませんでした。ただ一言でまとめるなら、すごく疲れたからでした。あんなことがしたい、こんなことがしたい、教育で世の中に貢献したい…そう思っていたけれど、現実には自分なんかの力ではどうにもならないことが多かったことを感じてしまって、すごく疲れたのでした。自分の生徒はすごくかわいかったから、講師をやってたこと自体はすごく楽しかったんですけど。掲げられた理想に対して、自分が追い付かなかった。
社会運動史研究会の歴史家たちはそういうのを「違和感」に昇華してまた別の道を選ぶことができたけれど、わたしは今のところ「学部生の手記」の学部生の段階で止まってしまっています。どうにかしてわたしも「ありのままの弱い主体」を肯定しつつ自信を持って生きられるような別の道を見つけたいんですが、どうしよう…と悩んだまま、もうすぐ一年が過ぎようとしています。おわり。

*1:http://ci.nii.ac.jp/naid/110007357801

*2:川本隆史《民族・歴史・愛国心小森陽一編『ナショナル・ヒストリーを超えて』1998年、東京大学出版会