- かつてあった日本の社会運動団体。1955年に勤労者や市民の文化サークル及び文化団体と国民各層との連携を強めることを目的として、当時の知識人や文化人の他、日本労働組合総評議会、日本教職員組合などが結成した団体である。2005年に解散した。 続きを読む
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修士論文で上原專祿という人について書いているのですが、彼が初代会長を務めたという「国民文化会議」なるものがよく分からなかったので、ちょっと調べてみました。
ウィキにはちゃんと項目があって( 国民文化会議 - Wikipedia )、概要も書かれてるんだけど、わたしのように初めて触れる人にとっては分かりにくい説明なんです。まあ辞書だから仕方ないですよね。
というわけで、自分なりに「ここを見ればどんな組織なのか分かる」ってところを抜粋して説明してみます。もし、いつか誰かが「国民文化会議」について調べようと思ったとき、ここで引用した記事やらリンクやらが役に立ったら嬉しいな。
①誰が作ったの?
まず、これは労働運動系の団体によって設立された組織です。
『月刊総評』という雑誌の記事*1によれば、
1954年8月、総評教育文化部と文化・芸能人懇談会があり、同年10月に総評各単産教文部長会議で仮称「国民文化会議」結成準備をきめる。(※「総評」=「日本労働組合総評議会」の略称。労働組合の全国中央組織。)
さらに1955年には「よい教科書でこどもの教育を守る大会」を日教組と共催。
つまり、労働組合の全国組織が設立したものであり、日教組などの労働運動とも密接なつながりのあった組織のようです。
なお、2001年に財政的理由で解散してしまったそうです。(はてなキーワードの説明は間違ってるんですけど、はてなのサービスを7日以上使っていないので、わたしは編集できないんです)
②どんなことをしていたの?
主な活動は国民文化全国集会の開催や、雑誌『国民文化』(書誌情報NDL-OPAC)の発行のようですが、他にも色んなイベントを主催していたらしいです。わたしが気になったものだけいくつか挙げます。*2
- 「働く婦人のファッション・ショウ」(1956年)
- 写真コンテスト「街から村から工場から」(1957年)
- 「戦艦ポチョムキン」上映運動(1958年)
- インドネシア人民文化連盟と交流(1961年)
- ベトナム反戦運動(1965年)
- 『まんが安保春闘』出版(1970年)
最後に挙げた『まんが安保春闘』が個人的に気になります。表紙は手塚プロ、漫画を石森正太郎・赤塚不二夫・やなせたかしが描くなど、とっても豪華です。(表紙はこちらのサイトが載せてくれてます→http://odasan.s48.xrea.com/museum/ampo.html)
話が逸れましたが、つまり国民文化会議とは「労組、文化団体、民主団体・職場・地域のサークル、学者、芸術家、ジャーナリスト、文化専門家などのむすびつき」で、「国民文化」の形成のために「会議」を重ねたり雑誌を発行したりそのためのイベントや運動をする…といった組織のようです。
③なにが目的なの?
先述のとおり「国民文化」の形成を目指すものです。
ただ、これは特に「民族文化」という視点を強調する意味をが含まれていました。当時の事務局長・南博が創立にあたって強調していたことのようで、「働く人たちによって、これまでの植民地的な文化をとり去り、本当の日本文化を生みだそうというのが、この会議の狙い」とも説明していたそうです。*3
ここはちょっと説明が必要なんですけど、この時期って「民族」は国家と一体のものではなくて、むしろ国家とは対立する存在なんですね。だから労働者や知識人がこの時代に「民族」と言う場合、「国家と対決して闘っていくために結成したチーム」のような意味合いが強いんです。だから「民族文化」の形成と言うんですね。*4
とにかく、「民族文化」としての「国民文化」の創造を目指す。これが国民文化会議の目的でした。
④上原專祿との関係って?
補足なんですけど、わたしが研究している上原專祿さんとの関係についても言及しておきます。
上原さんは初代会長なんですが、1961年に辞職しています。このとき、上原さんは次のようなことを言っていたそうです。長くなるのですが、引用します。
私が会長をやめることになりましたのは、会議のあり方が私の考えと相反するというようなことでは全然なくて、もっと原理的な問題です。…私が会長として三年半しゃべってきたことは、一口で申せば、政治の問題を文化の面で受け止めるために政治に従属したり道具になってはならない、文化創造の仕方で政治の問題を受けとめ、さらに深く人間は何のために生きているのかを追求すべきだということでしたが、しかしそういったことは今日まで何一つ実現できない。…この新安保体制をどう切り開いていくか、政治の面で追求すると同時に経済の面においても、文化の面でも取り組んでいかなければならない。…その場合に大事なことは、この問題を単に政治の問題として受け取ってはいけない、もっと基本的には、人間の尊厳というものを、日本国民としてどうつかんでいくか、どう実証していくかという問題である。それを平和の問題とか独立の問題とか民主化の政治問題として日本国民はつかんできた。しかしそれだけでは足りない。文化の問題としてもつかんでいかなければならない。…(国民文化集会が昨年の選挙で忙しいために開けなかった*5、という背景を踏まえて)選挙で忙しいから大勢の人が文化集会を開いても集まれないだろう、というようなことで今日になってしまったという事実の中にも、文化の問題を政治のお供にする考え方がはっきり出ている。…文化の問題の重要性は新安保体制下にあってはより大きくなっている。ところが、日本人として人間の尊厳をどう確立していくかといったことを、労働組合全体として考える段階になっていない。政党においても政治権力とどう対立していくかという問題のきびしさのため、今申し上げましたような文化問題にじっくり取り組む体制が貧弱で出来ていません。*6
つまり、ざっくり言うと、「選挙やらなにやらと政治運動ばかりにかまけて、国民文化の創造がおろそかになってる(政治の問題に対抗するためには、文化という社会的心理的条件の変革をもって挑まなくてはならないのに!)。というわけで、あなたたちとは考え方が原理的なレベルで違うから一緒にはやっていけません」ってことです。
これについて、記事「国民文化会議の歴史と課題」内の言及が有用なので引用します。国民文化会議設立当初(つまり1955年頃)について述べた文章です。
文化会議を構成する三つの要素としての労組、サークル、専門家が、「文化運動」へ集中してかかるには当時はあまりにも多事でありすぎた。…(略)…なによりも政治的な反動とのたたかいのほうがさきになった。第一回国民文化全国集会でいえば、全体会議の二つのテーマ「国民文化の創造の条件」と「国民文化創造を妨げるもの」のうち、後者とのたたかいが強調され、前者へのとりくみはおくれざるをえなかった。…極端にいえば、(国民文化会議は)文化の分野における政治的な国民戦線といった傾向があった。
やはり設立当初は政治的な運動にばかり取り組んでいたようです。しかし、この記事によると、それが「国民文化」創造のための「会議」という性格を強く持つようになったのは、1957年に上原さんが会長として講演したあたりからのことだった、とのことです。*7
でも上原さんは1960年に会議を辞めてしまっているので、彼が「文化の創造」を主張し始めた当初は、すぐには受け入れられなかった(→辞めた後になって上原さんの言っていたことが実現されるようになった)ってことなんでしょうね。
以上です。かなりざっくりとした説明でしたが、国民文化会議(と上原專祿)について、これを読んだ下さった方にとって何かしらの参考になればうれしいです。
この本とってもおもしろいですよー。勉強になりますよー。
*1:「二〇周年を迎えた国民文化会議」日本労働組合総評議会編『月刊総評』215号、1975年8月/国会図書館書誌情報→NDL-OPAC
*2:同上
*3:同上/引用文献には書かれていませんが、当時の労働者や知識人にとってのナショナリズムと形容できるものだと思います。
*4:参考:小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社、2002年、264頁
*5:事実、1960年は国民文化全国集会が開催されていません
*6:1961年「国民文化会議会長辞任の弁」上原專祿著作集24巻:79-87頁
*7:山部芳秀・日高六郎「国民文化会議の歴史と課題」『月刊労働問題』78号、日本労働者、1964年11月、27-28頁/NDL-OPAC