@AZUSACHKA 's note

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【映画】「顔のないヒトラーたち」(2014年、ドイツ、ジュリオ・リッチャレッリ監督)感想

※前半にネタバレ「なし」感想、後半にネタバレ「あり」感想を書きます。

 

すごくおもしろかったー。社会派かつちょっとエンタメ、という映画でした。
見る前は、あえてカテゴライズするならこの映画は社会派のそれだと思ってたのですが、フタを開けてみたら、日本の刑事もの(or検事もの?)ドラマを思わせるような(言ってしまえば、ベタな)展開もあって、想像してたよりエンタメエンタメしてました。そういう展開の中には、正直に言って、ちょっと文句を言いたくなるような部分もありました。
ただ、そういう軽い部分があるおかげで、他人におすすめしやすい映画になってると感じました。例えば「いかにもテーマの重そうな映画」をあまり好まないような友人に対して、「重いけど、タイトルから想像するより分かりやすいし見やすいよ」とオススメできるだろうなあ、と。わたしは高校の世界史の先生になりたいと思っていたので(今は目指すのやめちゃったけど)、元々こういう「楽しく観れて勉強にもなる」映画はすごく好きなのです。
というわけで、映画「顔のないヒトラーたち」、わたしはすごくおすすめです~。東京ではそろそろ終わり?のようだけど、全国ではこれから上映されるところもあるみたいですよ。

 

以下、続きは内容についての感想。基本的にネタバレはないよ。


まずは主人公について。「顔のないヒトラーたち」は社会派の映画であると同時に若者の成長ストーリーでもあるんですよね。そこがわたしの「エンタメ」だと感じた理由です。というわけで主人公のラドマン検事がわたしにとってはすごく魅力的でした。彼は優秀で真面目、正義感もある。彼の言うことは正しいんですよね。なんてったって検事ですから。でも、彼は正しいがゆえに周囲から受け入れられないんです。正論を武器にすると嫌われちゃうんですよね。真面目な若者あるあるですね。そんな彼が、どのように周囲から影響を受けて、「正しさ」を維持しつつもう少し広い視野を持って物事を捉えられるようになるのか。現在26歳のわたしは、まさに若者から大人になろうとしている年齢なので、色々と身につまされながら見ていました。

それと、若い知識人の孤独、みたいなものが描かれていたのもわたしには興味深かったです。話は飛ぶのですが、真面目で優秀で正義感に燃える若者、と言われるとわたしは19世紀ロシアの若いインテリゲンツィア(ナロードニキとかの)を思い出します。彼らは「インテリゲンツィア」の名の通り、教養があって、なおかつ社会を変革する正義感に溢れた人たちなんです。だからこそ彼らはロシア社会から「疎外」される存在でした。民衆のために社会を変えようとしますが、彼らは民衆自身ではないし、かといってロシアの悲哀を知ってしまったからには貴族にもなれない。例えばこういうインテリゲンツィアのように、改革を志向する知識人たちって基本的に社会全体からするとマイノリティであることが多いよなあとわたしは考えてるんです。それは日本でも同じです。そんなわけで、正論すぎて孤独になってしまった人がどのように変わるのか、が描かれる映画というのはわたしにとってすごく面白かったのでした。

 

次は、映画の社会的テーマについて。

この映画で扱われている「アウシュビッツ裁判」(1963年12月~)とは、「ドイツの司法当局がナチスの犯罪者を裁く」もの、つまり「ドイツ人がドイツ人自身を裁く」裁判でした。1945年に開かれたニュルンベルク国際軍事裁判が戦勝国による裁判だったのとは、そこが違います。映画の中でも、ここに大きな意味があるのだ、と主人公のヨハン・ラドマン検事が興奮気味に強調するシーンがあります。
日本とドイツの戦後処理の大きな違いは、戦前・戦中の社会との決別の度合いなんですよね。例えば、戦前・戦中と戦後の政治家に連続性があるかどうかとか…。自分の国の歴史を誇りに思えるかどうか云々の話題がありますが(詳しく書くのは面倒なので察してほしい)、「あれは悪くなかった」方式ではなく「あれは確かに悪かった」方式で過去を受けとめられた歴史が自分の国に存在していることは、すごく誇りに思えることだと思います。あまり国単位でこういうことを言うのは好きじゃないんですが、それでもあえて言いたくなります。ドイツがうらやましい…。
(※映画の本筋とは関係ないのですが、「ドイツ人がドイツ人を裁く」戦犯裁判は、第一次世界大戦のあとのライプツィヒ裁判もそうだったと記憶しています。大戦中の戦争犯罪を革命後のドイツ共和制政府が裁いたやつです。ただ、わたしが大学の授業で習った内容では、この裁判の結果は連合国側から「茶番」と言われるくらいあまり厳しくなかったらしいのですが。そのこのあたりのドイツ戦争犯罪史ってどういう風に言われてるんでしょう…調べたかったけど、時間がなかったので今後の課題としたいです←よくあるレポートのまとめ方。笑)
ただ、この映画では、その過程がけして簡単なことではなかったことがよく分かります。そもそも、過去と決別しようとしている主人公はとても若い人なので、決別すべき(直接の)当事者というわけじゃないんですよね。本人じゃないから、厳しい態度で臨める。だからこそ推し進められた裁判だけど、だからこその難しさもある。*1そのへんを、文章ではなくストーリーで表現できてるのがおもしろかった。

 

同時に、この裁判はそれまでの裁判に比べると、より「被害者」に目が向けられた裁判でした。例えば、ニュルンベルク裁判では、証人として呼ばれたのは圧倒的に加害者のほうが多かったのだそうです。それに対して、1961年のアイヒマン裁判は証人として被害者の声が反映されたものでした。つまり、アウシュビッツ裁判の頃(1963年)は、ドイツの人々が過去と対峙する際に「被害者」の存在に目を向け始めた時期だったといえるのでしょう。この映画の中でも、ラドマン検事が抱える悩みへの答えとして、「裁くことではなく被害者の声に目を向けること」が提示されます。その、向き合っているシーンは、観ていてすごく辛かった…観てから一週間以上が経った今になってそのシーンを思い出してもちょっと涙ぐんでしまう…。

 

最後に、「顔のないヒトラーたち」というタイトルについて。映画の中に、裁かれるべき容疑者が今は普通の人として街に溶け込んでいるだけでなく、裁かれるべき容疑者以外の人々が「過去を掘り起こすな」と説くところがあります。「顔のないヒトラー」は、前者だけでなく後者のことも指しているのだろうなと思いました。少し前の映画「ハンナ・アーレント」も同じようなテーマでしたね。アイヒマンは1960年に逮捕されて1962年に絞首刑となったので、同じ時代です。わたしの大学の先生はアイヒマン裁判の時代を「過去の克服」の谷間の時代である、と表現していました。イスラエルとの補償問題が解決した頃であったにもかかわらず、アイヒマン裁判で再び過去に体面することになった時代である*2、と。同じ時代の同じテーマの映画がここ数年で続いてるのって興味深いですよね。

 

以下はネタバレ含む感想を箇条書きします。

  •  アウシュビッツについて当時の人々が全然知らない、っていうシーンはどういうレベルで忠実なんだろう。このへん詳しくないけど、当時の人が収容所について何を知っていたか、ってそれだけですごいたくさん研究があるらしい。らしい、ということしか知らないのでこれ以上なにも書けないけど。
  • 収容所にはカレンダーなどなかった、という言葉が印象的だった。
  • メンゲレがドイツにいる最中に捕まえようとするシーン、なんとなく日本の某検事物ドラマを思い出した。あのドラマにそういうシーンがあったかどうかは覚えてないけど、ありそう。というかありがち。実際の出来事なのかもしれないけど、ベタだった。ベタだと思いつつも面白かったしドキドキした。
  • 書記?の女性が良い味を出していた。被害者の告白を聞いて彼女が嗚咽を漏らすシーンはこちらも一緒になって泣いてしまうし、逃げてしまうラドマン検事をきっぱり拒絶するシーンはかっこよかった。
  • マレーネとのベッドシーン、あれ必要だった?いらなくない??ああいう、主人公のアイテムとしてヒロインが登場するのって、もうお腹いっぱいというか、そういう映画ってすでにたくさんあるんだからこの映画でやらなくてもいいのに、と思った。正直うんざり。(その点マッドマックスは良かったなあ…。)主人公が彼女と幸せいっぱいに過ごす中でも裁判のことで頭がいっぱい、ということを表現したかったのかもしれないけど、だったらベッドシーンを匂わせるだけでいいし、そもそもその場合だとベッドシーンである必要はないよね。この映画はおもしろかったけど、あのシーンだけが残念だったなー。でも最後にマレーネが男を振ったのは良かった。女がいつまでも男のことを想っているなんて幻想だもんねー。

*1:映画の中に出てきた「若い世代が、父に犯罪者かと問うこと」という言葉が印象的でした。

*2:東京女子大学の芝健介先生です。