@AZUSACHKA 's note

わたしの感想をわたしが読みたい。

ポーランドとアイヌの抵抗の物語 - 『蝦夷地別件』と『また、桜の国で』

 

 

最近たまたまポーランド関係の作品に続けて出会っている。

 

はじめは漫画『ゴールデンカムイ』だった。主人公のアシㇼパさんの父親・ウイルクは樺太アイヌポーランド人の間に生まれた人間で、シベリアと極東の諸民族の独立を目指していた人だった。

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

次は小説『熱源』。アレクサンドル3世暗殺計画に関わったブロニスワフ・ピウスツキがサハリンへ流刑となり、そこでアイヌと出会う物語。

【第162回 直木賞受賞作】熱源 (文春e-book) 

3つ目は小説『蝦夷地別件』。「クナシリ・メナシの蜂起」と呼ばれる歴史的事件を描いたもので、蜂起したアイヌポーランド人から銃を買う計画を立てていた…という物語だった。そのポーランド人自身もまた、エカチェリーナ2世統治下のロシアにおいてポーランド独立を目指していた。

蝦夷地別件 上 (小学館文庫)

4つ目、最近出会ったのが小説『また、桜の国で』。上3つとは違い、北海道・サハリンは特に関係ない。けれど、日本とは大いに関係のある物語。

また、桜の国で (祥伝社文庫)

 

時系列順に並べると以下のようになる。

 

1789年 ステファン・マホウスキ、クナシリ・メナシの蜂起に関わる《蝦夷地別件》
1887年 ブロニスワフ・ピウスツキ、アレクサンドル3世暗殺計画に関わり、サハリンへ流刑となる《熱源》
1904年 日露戦争
1906年 棚倉慎の父セルゲイが来日、北海道や樺太で植物学の調査を始める《また、桜の園で》
1907年 杉元佐一とアシㇼパさんが出会う《ゴールデンカムイ
1917年 ロシア革命
1918年 ポーランド第二共和国樹立(ブロニスワフ・ピウスツキの弟、ユゼフ・ピウスツキが初代国家元首に就任)
1920年 在シベリア・ポーランド孤児たちの来日、棚倉慎とカミルが出会う《また、桜の国で》
1944年 ワルシャワ蜂起《また、桜の国で》

 

どの物語でも、アイヌポーランドが蜂起したり、圧政に抵抗したりしている。

 

アイヌの物語は最近意識的に選んで読んでいたけれど、ポーランドはとくだんそういうわけではなかったので、面白い繋がりに興味が湧いた。

 

ポーランドアイヌも、どちらも抑圧された人々なんだよね。
理不尽に抵抗する物語からは大きなエネルギーをもらえる。

 

タイトルに沿った話はここまで。

 

以下は、関連するけど別の話になります。

抵抗したけど敗北する…という物語はどう受け止めたらいいんだろう、という話です

あんまり自分の中でも整理がついていない話なので、散逸的な文章になります。

このツイートをした後に考えた内容です。

 

敗北の物語

ネタバレだけど歴史的事実なので書いてしまうと、『蝦夷地別件』のクナシリ・メナシの蜂起や『また、桜の園で』のワルシャワ蜂起は失敗してしまう。『ゴールデンカムイ』は完結していないけれど、歴史から逆算(?)すると北海道は独立しないしアイヌの境遇もずっと変わらないままのはず。

 

特に『蝦夷地別件』のラストはとても悲しかった。
蝦夷地別件』の主人公はアイヌの少年だったので少年漫画を例に出すけど、例えば少年漫画なら、きっと蜂起が失敗して家族を失うところから少年の物語が始まり、少年は師匠に出会って修行して成長してラスボスを倒して故郷の独立を勝ち取る…みたいなストーリーになると思うんだけど(少年漫画というより鬼滅の刃っぽいかな…)、歴史的事実に沿ってアイヌの物語を描いている以上、どうあがいたってそういう物語は作れない。アイヌ民族への差別は現在進行形の事実だし。

 

敗北に「抵抗した」という意味を持たせる

ただ、これまたちょっと話が飛ぶんだけど、よしながふみ『大奥』で胤篤様が“人は悲しい人生を何かしらの「物語」に組み込むことで自分を納得させ、乗り越える”みたいな意味合いのこと(うろ覚え)を言ってた。

 

『また、桜の国で』も結局は敗北の物語なんだけど、以下の台詞が印象に残っている。

 

「私たちに見捨てられた、ダヴィデの星をつけた友人たちは、最後まで戦いました。でもそれは、なんと悲しい戦いだったことでしょう。
 私たちがポーランドのために戦っていると思いあがっているすぐそばで、彼らはただ、人間らしく死ぬためだけに戦ったのです。
 そう、ユダヤのためでもポーランドのためでもないのです。自由を取り戻すためでもないのです。
 彼らはただ、尊厳を持って自らの人生を終わらせるために、戦ったのです。
 自分たちは人であると、世界に訴えるために。そしておそらくは、自分自身に信じさせるために。」*1

 

死ぬことは分かっているのに戦う物語、と言われるとどうしても私は特攻隊が頭に浮かんでしまう。美談にして消費してしまうことに抵抗がある。だからこの台詞もちょっと警戒してはいる。(そういう意味では、一つ前のエントリーで『鬼滅の刃』について書いたけど、あれも色々と悩みながら読んだ。特に胡蝶しのぶさんの最期とか…)

 

ただ、一方で、『また、桜の園で』には以下のような台詞もあった。

 

「君たちは、自由のためにみごとに散るためにいるのではない。美しい最期を望むようになったら、それはもう、理想そのものを自ら投げ捨てたのと同じことなのだ」
*2

 

これはどう読んだらいいんだろう。

 

「特攻隊の犬死にを美しい物語として消費すること」とこのエントリーで挙げた『蝦夷地別件』や『また、桜の園で』との違いは、「理不尽を受け入れた結果の(定められた)死」と「理不尽に抵抗した結果の(不慮の)死」なのかなあ。

 

まだ自分の中ではモヤモヤし続けてるテーマなのでここで結論は出せないんだけど、悩んでいたことを記録しておきたくてこのエントリーを書いた。

 

azu-mir.hatenablog.com 

 

2022/05/04追記

久々に読み返したら「アシㇼパ」を「アシリパ」、「ウイルク」を「ウイル」と書いていたことに気がついた。後者は単なるミスだけど、前者は血の気が引いた。やっちゃダメなミス!というわけで直した。

*1:須賀しのぶ『また、桜の国で』祥伝社文庫、415頁

*2:同上、553頁