Unknown Lady's Diary

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イスラム国による日本人人質事件に思うこと――上原専禄の「個性のあるものとして物を見る」によせて

【全文】「72時間は短すぎる。時間をもう少しいただきたい」〜イスラーム法学者・中田考氏がイスラム国の友人たちに呼びかけ (1/2)


【全文】「警察の捜査が、湯川さん後藤さんの危機的状況を引き起こした」〜ジャーナリスト・常岡浩介氏が会見 (1/2)

 

このエントリーを書いているのは1月30日。すでに上記のインタビューが行われたのは数日も前のことであり、交渉の内容も当初のものとは変わっておりますが、思うところを残しておきたかったので書くことにしました。2人の日本人がイスラム国によって拘束された事件について、みなみ まなぶ (@mcnang) | Twitter さんのつぶやきとと中田考さん・常岡浩介さんのインタビューを読んで、上原專碌が「文明圏」に基づく世界史像の必要を述べていたことを思い出したのでした。

 

常岡さんによれば、昨年8月にイスラム国の司令官から常岡さんのところへ連絡が入り(常岡さんはチェチェン戦争を取材していた縁で彼を取材したことがあった)、拘束した湯浅さんのスパイ容疑について裁判をするから、通訳として学者の中田さん・立会人としてジャーナリストの常岡さんに来てほしい、という要請があったそうです。急いで9月の頭に現地へ向かったものの、事情によってその時は会えず、一か月後に再びイスラム国へ向かう約束をしたのだが、10月6日に常岡さんが家宅捜索をされてしまい叶わなかった、という経緯だそうです。このお二方のインタビューは、わたしにとって以下の2つの意味を持ちました。

 

①身代金を支払う・支払わない以外の方法(それも平和的な)があると知った

  • 安倍総理の2億ドルの拠出金がイスラム国の女性や子どもを殺すためのものだと勘違いしているのであれば、本当に彼らがそう思っているのであれば自分や中田氏が誤解を解くことができるし、もし勘違いではなく分かっていてのことならば、わかっていないふりをしてイスラム国への攻撃に関与していない外部の人間を脅迫することはイスラム法で違法。(常岡氏)
  • 身代金を支払うことの代案として、イスラム法廷を開くことが挙げられる。そうすれば証人を立てることもできるし、完全無罪にはならずとも死刑(=その場で殺される)にはならないかもしれない。少しでも譲歩を引き出すことはできる。(常岡氏)
  • 今回の事件は、これまでの日本の支援はバランスが悪かったことに起因している。中東では赤新月社と呼ばれている国際赤十字イスラム国の支配地域でも人道活動を続けているものなので、トルコに仲介してもらってこの赤新月社を通じて難民支援を行うのはどうか。イスラム国の要求する金額は日本の難民支援に対するものなので、これが合理的で双方が受け入れられるギリギリのところでは。(中田氏)

わたしは国際政治にも刑事事件にも疎く、こういう人質事件が起こった場合に「身代金の支払い」以外の方法には何があるのかを全く知らないので、常岡・中田両氏の話は目からうろこでした。身代金を支払ってテロリズム資金繰りに加担するでもなく、日本人の命を見捨てるでもなく、武力以外の方法で交渉する方法が存在している。そして赤新月社を通じて難民支援をすることで、「安倍首相の中東支援のバランスの悪さ」という問題の本質を解決できる可能性がある。つまり、身代金を支払うか否かしか問えない八方ふさがりの状況ではなく、軍事力ではない、平和的な対話という方法がきちんと存在している、ということだったんですよね。

うまいこと言えないんですけど、このことになんだか私自身も救われたような気がしたんです。

 

②「個性のあるものとして物を見る」という上原專碌の言葉の意味を理解した

わたしは修士論文で上原專碌という歴史家の思想を研究していました。彼の主張していたことの中に、これからの日本人は「個性のあるものとして物を見る」ようにならなければならない、という話があります。ひとりひとりの人間や国・民族にはそれぞれ独特の考え方や歴史・個性があるとは考えられず、だから日本人は「自分の寸法で簡単に良い国だの、悪い国だのと、品定めをやってのける」傾向にあるのだ、これからはその傾向から脱しなければならないのだ、と上原さんは言っていました。*1これは、言い換えれば「その地域にはその地域の文化・文明があり、行動規範がある」ということだと思います。国際理解において、国・民族・宗教の違う相手であっても「同じ人間」だと理解することは大切なのですが、それと同じくらい「どう違うのか」を理解することも大切だと思うんです。「同じ人間」であっても、「物の見方・考え方」は違う。「個性のあるものとして見る」は「違う人間なのだ」と理解することなんですね。

もし、ひとりひとりの人間・国・民族・宗教には個性がある(=その地域なりの行動規範がある)ことを理解しなければ、衝突が起きたとしても、現実的で平和的な方法をとることができない。イスラム法廷赤新月社の存在を常岡さんや中田さんが挙げることができたのは、イスラム世界にはイスラム世界の秩序があると認知していればこそです。

修論はすでに提出してしまいましたが、こうして振り返ってみると、上原さんによる「物の見方」への問いかけは、思想にとどまらない、とても実学的なものだったのかもしれないなあ、と思えてなりません。

一方で、そのように認知していなかったのが日本の外交や「狭義の“実学”偏重」だったのかもしれませんね。(冒頭で引用したツイート参照)

 

以下は蛇足ですが、こうしてあらためて上原さんが「文明圏」という世界史像にこめた(かもしれない)平和への思いをかみしめると、世界史学習に重要なのはやはりその地域・国・民族ごとの文化を知ることであって、地球市民としてのアイデンティティ((を形成するのは違うのかなあ、と思ってしまいます。地球市民としてのアイデンティティは、それはそれでもちろん重要なことは否定しないのですが、世界史学習で優先的にやることでもないのかなあ、と。

まあ、この話はまたそのうちに。

*1:著作集9所収「物の見方・考え方」より