@AZUSACHKA 's note

わたしの感想をわたしが読みたい。

「私たちの戦いはこれからだ」ENDにしてほしかった - 『ゴールデンカムイ』最終回感想

まさかこんな結末になると思わなかった。正直、どちらかというと今はまだ戸惑いとショックが大きい。

このブログでゴールデンカムイについて詳しく感想を書いたことはなかったけれど、『熱源』『蝦夷地別件』『十勝平野』『氷結の森』を読んだのはゴールデンカムイの影響が大きかった。下ネタも多い漫画なのでちょっと言いにくかったけど、大好きな作品だった。

そのゴールデンカムイが先日(2022年4月末)最終回を迎えた。そこで描かれた作中世界の結末については、手厳しい批判が多い。わたしもショックを受けた。

本作は「現実への批判性を持ちつつエンタメとしても優れた作品」の一つになりうるものだと期待しながら読んでいたのだけど、あの最終回からは現実への批判性をあまり感じられなかった。(苦い現実への皮肉だ、ああいう現実になってほしいという願いを込めた結末だ、という見方もあるみたいだけど)

とはいえ、これだけの物語を単に「ひどい最終回だった」で終わらせるのはとても悲しい。まだ気持ちの整理がついていないのだけど、その戸惑いも含めて今の気持ちを形にしたく、本エントリーを書いた。

 

(以下2022/05/03追記)

ゴールデンカムイが大好きだったけど、あの最終回は批判すべき。でもまだ気持ちの整理がつかない。それだけ好きだったので」という人と気持ちを共有できたら…と思ってる。

あの最終回を「大団円」と認識してる人、反対にとことん厳しく批判すべきであると考えている人とは、もしかしたらあんまり共有できないかもしれない。

(追記終わり)

 

 

 

最終回の批判点

わたしが指摘したいのは、主に以下の3点。

アイヌの洗練された、生活に根ざされた文化は残せていないのに、「博物館での展示」を肯定的に描いた

  • 博物館にアイヌの資料が展示されていることをもって「文化を残せた」とは言えない。
  • 文化はモノだけじゃない。アシㇼパさんがアチャから受け継いだのはマキリだけじゃなく、生活の知恵や宗教観などもだったように。文化とは考え方。
  • そういう文化は失われている(失われかけている)のに「文化は伝えられている」とポジティブに表現した。(※今現在も残そうと努力してる方々がいるのは承知してる)
  • 「モノは残せた」ではなく「モノしか残せなかった」のでは?

アイヌ文化を奪ったのは和人なのに、アイヌと「和人の努力」によりアイヌ文化が保全された、と表現した無神経さ

  • 和人の中にもアイヌ文化を守るために活動している人は多々いる(本作品の監修の中川裕さんなど)ので嘘ではない、とは思う。そうした人々へのリスペクトを込めてそう書いた可能性はある
  • ただ、アイヌ文化を残すために当事者たちがどれだけ苦労しているか、奪ったのが誰であるかを考えたら、やはり無神経な表現なのでは。

③白石が東南アジアに王国を建国した(可能性が高い)点

  • 現実に日本は東南アジアの国々に侵略した過去があるので、やはりこれも無神経だったと思う。
  • 加えて、これまでに描いてきた白石像とのズレも感じる。房太郎の思いを継いだとは言えるかもしれないけど、キロランケやアシㇼパさんのの思いだって彼は見てきたはずなので。(忘れられがちだけど白石は出会った最初、アシㇼパさんに差別的な言葉を投げつけた。彼も作中で成長したはずなんですよ)

(追記05/04① これらはあくまでもわたしが指摘したい点。SNSを眺めると、他にも色々な批判されている。)

(追記05/04② 白石については初読時、インドネシアプランテーションを経営して“女王”のように振舞っていた三輪ヒデという日本人女性のことを思い出した。“王様”もこの程度のことだったらいいな…本当に君主になったわけじゃなくて…と切実に願っている。いや三輪ヒデも加害側なので、それならいいってわけじゃないけど…)

 

風呂敷が広がりすぎてしまったのでは

仮説

ただ、作者が何も考えずこの結末にしたとはあまり思いたくない。本人も最終ページで「完璧とは全く思っていませんが、ゴールデンカムイをこれ以上の質で描ける作家は、野田サトル以外いるわけがないので諦めます」と述べている。
その「質」が絵なのかストーリーなのかは分からないけれど、これまでアイヌ文化の描写に対して誠実に取り組んできた人なので、すべてこれで良いと思っているわけではないのだろう…とわたしは推察している。(実証できないので、あくまでも「そう思いたい」というレベルではあるけれど)
個人的には、話が進むにつれて風呂敷が広がりすぎてしまい、作者の手に負えるレベルではなくなってしまったのではないか、と思っている。

中川裕さんの指摘

その理由は、2021年9月(函館戦争が始まったあたり)にアイヌ語監修の中川裕さんがラジオに出演した際の発言にある。
  • 野田さんはアイヌの人権問題を描いていると思われないよう気を配っている
  • でもこれから最終章を迎えるにあたり人権問題を描く方に向かう雰囲気が出てる、それは危ないんじゃないか
以上のような趣旨の指摘をしている。詳しくは番組を聴いてほしい。
 
中川さんは「危ない」の意味を詳しく説明はしていないのだけど、「これまでエンタメ作品として作り上げてきた物語に人権問題を絡ませたうえで『大団円』で終わらせるのは難しいんじゃないか」とわたしは解釈した。
(※あくまでわたしの解釈です。中川さんは「危ない」としか表現していません)
 
ざっくり言うと以下のような感じ。
  • 途中まではあくまでも「アイヌ文化の力を借りたエンタメ作品」だった
  • しかし、金塊だけでなく土地の権利書が発見されたことで、アイヌの未来をアシㇼパさんが背負うことになってしまった
  • それと同時に、作中の焦点が「金塊争奪戦」から「民族自決」や「共和国樹立」に移ってしまった
  • それと同時にゴールデンカムイアイヌの人権問題を背負うことになってしまった
 

アシㇼパさんが背負わされたもの

アシㇼパさんは、ウイルクが囚人を脱走させたことに娘として責任を感じていた。キロランケに連れられてサハリンの諸民族に出会い、視野を広げ、失われつつある自分たちの文化を守るためにはどうすればいいのか、とも悩んでいた。その名に託された願いとともに、アイヌの未来を背負おうとしていた。
しかし金塊はすでに土地の権利書になっていた。アイヌたちはしたたかに土地を手に入れていた。過去のアイヌはすでに抵抗していた、弱々しくなんかなかった。彼女ひとりが背負う必要はなかった。それが父から娘に託されたものだった。
…と、ここまでは熱い展開だったんだけど、たぶんその先を描く時間はなかったんじゃないかな…
(後述するけど、話数も足りなければ調べる時間も足りなさそう)
 
だってアシリパさんはアイヌの代表でもなんでもない。
理想をいえば、アシㇼパさんは財団でも立ち上げて、北海道やサハリンの諸民族が文化を保全するための活動を支援することだってできた。
でも金塊はそこにあるだけで争いになってしまう。アシㇼパさんにとって身近な人々が金塊をめぐって死んでいくのを目の当たりにしてしまった。人間を殺したウェンカムイをアイヌは食べないように、金塊が存在し続けることすら嫌になっても仕方ないと思う。
とはいえ身近に頼れる大人もいた(和人だけじゃなくイポㇷ゚テやキラウㇱだっていた)のだから、金塊を守りながら文化保全活動する未来もありえたとは思うけど…
 

ゴールデンカムイ最終回の苦さは現実の苦さ

…それでもやはり現実は苦いままなのだから、どうあがいても「大団円」にはならない。
差別問題を扱う物語を、めでたしめでたしの「解決」で終わらせることはできないんだよね。
だって現在進行形の問題なのだから、現実との矛盾が起きてしまう。
 
ましてゴールデンカムイはあくまでも娯楽作品と位置づけて描かれ続けてきた作品。
最初から現実への批判性に主眼を置いていたならともかく、途中からテーマを移行(金塊争奪戦→人権問題)して現実への批判性を込めるのは…無理じゃないけど、難しいよね。
娯楽作品はやっぱりハッピーエンドで終わらせたいのが人情だし。
(難しいけど、ゴールデンカムイなら「現実を批判しながらもポジティブに終わってくれる」と期待してた人が多かったんじゃないかな…私も含めて)
 
①文化の描写に真剣に取り組むこと
②作品の思想を深めること
は別の問題なので、物語終盤(函館戦争以降)で始めてしまった②をやりきるのは難しかったんじゃないかな。
 
函館戦争開始〜物語の終わりまで半年ほどあったので、単純に話数でいえばそこまで描けたかもしれないけど、週刊連載をしながらポストコロニアル的な思想?視点?を深めて描ききるには、野田先生には時間も気力も足りなかったのかもしれない。
ポストコロニアルって、誰もが当たり前に持ち得ている視点じゃないだろうし…特にこの日本では。
ゴールデンカムイ最終回の苦さはそのまま現実の苦さだよね。
 
いや、もしかしたら話数も足りなかったのかも。4/28が最終回だというのは5ヶ月前から決まっていたことらしい。終盤の展開、たとえば尾形の最期、妻子の骨に対する鶴見のまなざしなど、たった1コマ、たった1話でまとめたのは本当にすごかった(特に「山猫の死」の情報量はすごかった)。でも、それはつまり「それだけ残り話数が足りなかった(1コマ、1話で収めなければいけなかった)」ということなのかもしれない。
 
最終回を擁護するわけじゃない。最初に書いたとおり、正直ショックを受けた。
でも単に批判するだけだと自分の気持ちの収めどころが見つからないので、なぜこうなったのかを自分なりに考えてみた。
 
個人的な願望としては、「俺たちの戦いはこれからだ」式に終わってほしかった。
だって実際そうだから。鯉登少尉が月島に「右腕になれ」と言ったけど、アシㇼパさんが杉元に「これからも相棒でいろ」と言ってもよかったと思う。

 

ゴールデンカムイの「役割」とは

アイヌ文化が身近になった

ゴールデンカムイは各々の「役割」が何なのかを描く物語ともいえる。最初にそれを提示したのは谷垣。そしてアシㇼパさんの役割、杉元の役割。
 
それでいうと、ゴールデンカムイの「役割」とは何なのか。
これは各所で繰り返し色々な人が指摘してることの焼き直しだけど、やっぱり「アイヌ文化が和人にとって身近なものになる」に尽きるのだと思う。(※先述した①文化の描写)
 
当然、理想を言えば、差別や人権問題を批判的に描く視点をもっと入れるべきだった。
ゴールデンカムイは、それよりも手前の段階にとどまったのだと思う。
アイヌ文化が身近になる」を「達成した」とも言えるし、「それにとどまった」とも言える。
 

キロランケやウイルクの思いを託されたのはアシㇼパさんだけじゃない

でも個人的には、「アイヌ文化が身近になった」というポジティブな面を過小評価したくはない。
少なくともわたしにとっては、ゴールデンカムイに出会ったことによってアイヌやサハリンの歴史に興味を持ち、自分が人生かけて考えていきたい問題意識がひとつ増えた。わたしは小学生の頃まで北海道に住んでいたんだけど、自分の故郷の加害の歴史をこんなにも知らなかったのかと反省もしたし、主体性を持つことができた。
 
差別の歴史を真正面から受け止めるのは簡単なことじゃない。
ましてわたしは北海道出身の和人である。まさに直接の加害者の子孫なのだ。
恥ずかしながら、以前アイヌ差別を描いたとある小説(十勝平野)を読んだ際は、あまりにも辛くて途中で挫折して読めなかった。
 
でもゴールデンカムイ最終回の苦さを噛み締めてしまったので、辛い…とか言ってないで現実の苦さを噛み締めなきゃいけないなと思い直した。
キロランケやウイルクの思いを託されたのはアシㇼパさんだけでなく、読者であるわたしたちでもあるはずだ。
 
正直に言うと、最終回の苦さを噛みしめるまではここまで真摯に受け止めていなかった。なにも批判すべきところがなくパーフェクトに終わっていたら、わたしは単に「面白かった」で終わっていた可能性が高い。たぶんこの文章も書いていない。あの結末だったからこそ、こんなふうに描かれてしまったら「めでたしめでたし」で終わらせてはいけない、と思えたのかもしれない。

 

ゴールデンカムイに足りないものがあるならファンが埋め合わせよう

互いに欠点を補い合って成長するフェミニズム

わたしは女性史を学ぶ読書会をやっている。
その流れで、先日、柚木麻子さんの『らんたん』を読んだ。この小説を出版した際、エトセトラブックスのYoutubeで柚木さんが語ったことがとても良かったのでみんなぜひ見てほしい。『らんたん』も読んでほしい。
41:20あたり〜
「女性の歴史はひとり欠けてもだめだし、誰かの欠点も含めて、次の世代がさらによくしていけばいい」
(話自体はこの区切りの前から始まってるので、適宜戻して各自確認して下さい)
 
フェミニズム史を勉強していると、完璧なフェミニストなんていないんだ、とよく分かる。柚木さんも言ってるけど、市川房枝だって戦争協力してる。完璧な人間なんていないのだから、完璧なフェミニストなんていない。
だからこそフェミニストシスターフッドで繋がる。そうすれば互いの欠点を補いあえるから。
欠点を見ないふりするのではない。ともに指摘しあうことで成長していけるのだ。
柚木さんの言葉と『らんたん』に出会って、わたしはそう思うようになった。
 

ともに背負っていこう

だから、ゴールデンカムイに足りなかった部分があるなら、ファンが補っていこう。

もし、エンタメ作品であるゴールデンカムイに人権問題を背負わせることを良しとしないと感じるなら、読者が一緒に背負っていこう。
ゴールデンカムイアイヌ文化を広めた。でも人権問題は掘り下げられなかった。
それを残念に思うなら、ファンが人権問題を掘り下げよう。
 
ゴールデンカムイに出会ったからこそ問題意識を持ちました、と胸を張れるように。
 
中川さんはラジオ番組に出演した際、「アイヌ文化に触れてみたい、と思ったときにおすすめの場所は?」と聞かれて、「自分としてはものの考え方が重要なので、どちらかというと本を読むことのほうが必要なんじゃないか」と答えていた。
モノや言葉を残すのは専門家じゃないと厳しいけど、考え方を残すのはたぶん比較的誰にでもできるはず。アイヌの考え方を知り、自分の血肉にしよう。それが文化を残すことにも繋がるはずだから。
 
というわけでわたしも早速、友達にアイヌ史を学ぶ読書会をやらないかと誘ってみた。
まずは自分が学んで、自分が変わることから始める。
本を買うのは行動の一つだしね。
 
どんな本を選んだか等はそのうちなにかの形で公開したいなと思ってるので、公開できたらぜひ読んでやってほしい。真似して同じような読書会をやってくれる人がいたら、それ以上に嬉しいことはないので。
 
おわり

 

追記2022/07/31

31巻が出たので読みました。この文章を書いたときよりはだいぶ気持ちが落ち着きました。加筆修正部分についても書いています。

azu-mir.hatenablog.com

 

追記2022/07/17

本当に読書会を作りました。
議事録を公開するウェブサイトも作ったので、見てもらえると嬉しいです。

ゴールデンカムイが完結したのでアイヌ史を学ぶことにした

 

追記2022/05/03

※第七師団に厳しめの話です

※第七師団関係の描写への批判を目にしたくない人は読まないで下さい

すごく長い文章になってしまったし、最終回の感想からは少しズレてしまうので触れなかったけど、個人的には、アイヌの描写よりも第七師団の描写のほうがまずかったんじゃないかなー…と感じることが多い。

アイヌ差別のほうは、最終回描写の通り不十分ではあるものの、作中で言及されてはいた。差別を無視してはいなかった。

でも第七師団のほうは特にそういう気遣いを感じられなかった。

鶴見中尉は「北海道でケシを栽培する/軍需産業を発展させる」「大陸を侵略する」「和人への同化政策を受け入れるアイヌなら存在してもよい」等の思想を持っている。なので、明らかに悪役だな、軍国主義を象徴するキャラだな、とわたしは読み取っていた。

だけど、ファンダムにおける第七師団の人気ぶりを見ると、そういうふうには読んでいなかった人も多いらしい。昨日初めて知ったのだけど、北鎮記念館の売店で販売されている慰問袋に推しの名前を刺繍するサービスがあったり、北鎮記念館で軍服のコスプレができたりするらしい。それは超えちゃいけないラインでしょう。

…でも、そりゃそうだよね。鶴見中尉は魅力的な悪役だし、鯉登少尉は作中で大きく成長するからかっこいいし、月島軍曹はなんかほっとけない感じがするもの。ファンができるの当たり前だよ。この3人にそんな興味ないわたしでも分かる。宇佐美は…ごめんね。

もちろん、読み手側の問題もあるけど、作品の責任は大きいよ。

戦前の軍国主義を無邪気に楽しんでしまうようなファンを産んだ点については、なにも擁護できない。軍国主義はもっともっとくどいくらい分かりやすく否定してほしかった。